『昔むかし西京極で…』
音宇作
 
 静かな湖を見下ろす丘の上の小道を、真理ちゃんが駆けて行きます。
 ここは日本のとある田舎町。そして時はといえば何とこれが二十二世紀の初頭!
 この時代、都会は今や情報満載の電磁波飛び交うジャングルにも似た電脳空間と化していた…のだけれど、では田舎はというとこれが百年前、二百年前と相も変わらずの菜の花畑に蝶々がヒラヒラ。そしてどんなに時代が移っても、やっぱり子供の心には、いつも冒険心がいっぱいに詰まっているのです。
 というわけで数日前、学校帰りにふと寄り道をして見つけた林のなかの古い家。そこで出会った不思議なおじいさんに、真理ちゃんは今日も会いに行くところなのでした。
 門柱みたいな、大人の背丈くらいの高さで直立する二本の木を目印に、その間を抜けるとそこが林の入り口。ひんやりとして湿気を含んだ空気を頬に感じながら、次第に暗くなってゆく林の中を進んで行くと、突然目の前にがっしりとした木造りの古い洋風の家が現れます。
 先週金曜日の事、真理ちゃんはその古い家のテラスでロッキングチェアーに腰掛けたおじいさんと出会いました。そのおじいさんの姿を初めて見た時の真理ちゃんの驚いたことといったら!
 えっ、どうびっくりしたかって?うーん、まぁ今のところは、真理ちゃんにはそのおじいさんが、まるで都会に行ったとき科学館で見た、アンドロイドかミュータントみたいに見えたとだけ言っておきましょう。
 それはともかく、子供にとっては見た目なんて慣れてしまえば大して問題ではありません。おじいさんとお話するのがあんまり楽しかったものだから、今週になって真理ちゃんは毎日、学校の帰りにこのおじいさんの家へ遊びにくるようになったのです。
 「おじいさーん、今日も来たよ!」
 テラスに出したお気に入りのロッキングチェアーに腰掛けて、おじいさんはちょっとウトウトとしていたようす。
 「…むにゃむにゃ…よしっ、ユタカ!そこでシュートじゃ!むにゃむにゃ…ん、うーん…お、おお真理ちゃんか!よく来たな。わしは今、何だか夢をみておった様じゃよ」
 言いながら目をこすると大きく伸びをしました。
 「ふーん、それってどんな夢なの?」
 すかさず真理ちゃんが訊きます。
 「うん、そうさな…」
 どっこいしょと立ち上がると、おじいさんは家のドアのところまで行って真理ちゃんを手招きします。
 「どうだい、ちょっと中に入ってみるかな?」
 今日は水曜だから真理ちゃんがおじいさんのところに来たのは四回目、でもこれまでは外でお話するだけで家の中に入った事は一度もありません。
 (えーっ、どうしよう…)
 でも、そんな真理ちゃんの躊躇いなんてお構いなしに、おじいさんはドアを開けるとさっさと中へ姿を消します。
 (まっ、いいか!)
 心を決めると、真理ちゃんもおじいさんに続いて家のドアをくぐりました。
 家の中は薄暗く、どこか不思議な香りが漂っています。
 「さあ、そこのソファにでも坐っておくれ。あ、ばあさんがとなりの部屋で寝とるから静かにな」
 真理ちゃんが、びっくりして尋ねます。
 「えっ?おばあさんもいたの?」
 これは初耳。真理ちゃんはてっきり、おじいさんは独りで住んでいるものとばかり思っていたのでした。
 「ああ、まだ言ってなかったか。うん、それじゃ、ばあさんの目がさめたら、後で真理ちゃんにも見せてあげよう」
 「……」
 (おばあさんを見せてあげる?『会わせてあげる』の間違いじゃないの?)
 そう思ったけれど、真理ちゃんは何かわけがありそうなので黙っていました。
 「あ、そうそう、さっき何の夢を見ていたかって事じゃったな」
 言っておじいさんは部屋の電気を点けます。部屋中に光が溢れ、今までよく見えなかった部屋の様子が目に飛び込んでくると、真理ちゃんは「あっ」と声をあげてしまいました。
 それは六畳くらいのそんなに広くない部屋でした。しかしその部屋の正面の壁一面に、二メートル四方はあろうかという大きな紫色の旗が飾られていたのです。いいえ、それだけではありません、別の壁にピン止めされているのは何枚もの紫のシャツやマフラーのように長い紫のタオル、ソファの色も机の色も…とにかく部屋中が紫のものだらけ!
 「パープル…サ…ン…ガ」
 壁に飾られた大きな旗の中央に白く染め抜かれた英字を、真理ちゃんが声に出して読みます。
 「おお、真理ちゃんはローマ字が読めるんじゃな」
 真理ちゃんの発音したその響きを慈しむように、おじいさんもその言葉を繰り返しました。
 「パープルサンガ…そう、平安奠都来一千有余年の日本の都、古都京都が生んだ比類なきプロサッカーチームの名前じゃよ」
 「えっ、でもサッカーって…」
 「ああ、左様。残念ながら二十二世紀の今ではサッカーといえば3Dのバーチャルゲーム。走査線で作られたどんなスーパープレイもやってのける選手たちが、まるで劇場みたいなバーチャルスタジアムで演じる予定調和のエンターテイメントに成り下がっておるがの、以前はサッカーと云えば生身の人間がその肉体を鍛え上げて行う、対戦するチームの技と技、気持ちと気持ちがぶつかり合うまさに真剣勝負のスポーツだったのじゃ」
 部屋を見回すと壁の所々には確かに、紫のユニフォームを着た選手らしき人達の写真がたくさん飾られています。
 「わしはこのサンガというサッカーチームを子供の頃から応援しておっての、京都で試合があるときには必ず応援にでかけたものじゃった。実は隣で寝ておるばあさんと知り合ったのも、このサンガの応援を通じてだったのじゃよ…」
 うっとりと遠くを見るような目をして話すおじいさんの表情を見ているうちに、真理ちゃんは何だかこのサンガのことが知りたくなってきました。
 「ねえ、おじいさん。サンガの話、もっと聞かせて!」
 おじいさんはわが意を得たりという顔で大きく頷きます。「ああ、いいとも。さて、何を話そうか…うん、そうじゃ、あの出来事がいい…あれは実に不思議な出来事じゃった…今から百年ほど前、二十一世紀の初め…わしがまだ子供じゃった頃(わしはもう百歳を越えておるからのう)…たしか柱谷さんが監督をやっておった時の事じゃったな…うん、まだスタジアムが西京極にあった頃の事じゃ」
 そしておじいさんは静かに語り始めます。
 「昔むかし西京極で……………」
 
   ☆   ☆   ☆
 
   ☆   ☆   ☆
 
 …さてさて、これは二十一世紀が始まってまだ間もない西暦二千五年のお話。
 日本プロフットボールリーグ(以下Jリーグと略す)の二部リーグ(以下J2)に所属する京都が生んだ比類なきプロサッカーチーム、京都パープルサンガ(以下サンガ)は、この年の秋、シーズン終盤を迎えて、開幕当初には予想すらしなかった過酷な戦いを強いられていました。
 というのも、J2降格二年目となったこの年、悲願のJ1復帰に向けて前シーズン途中から指揮を執る柱谷幸一監督の下、サンガはチームの大改革を断行。これが功を奏し、またチーム全体に漲る戦いへのひたむきな姿勢と相俟って、開幕以降確実に勝ち点を積み重ね続けていたのでしたが、この好調が他チームの敵愾心を煽ってしまったのでしょう、次第に他チームのマークは強くなるばかり。その前年、川崎フロンターレに独走を許した苦い経験から、シーズンの半ばにさしかかる頃から他の全てのチームは結果として暗黙の内に徹底的なサンガ包囲網を敷くかたちとなり、いつの間にやら『サンガ戦はたとえホームでもドローで十分』といった意識が浸透してしまって、試合では自陣深く引きに引いて戦うようになったのです。
 さてこうなると、さすがのサンガでもおいそれとは勝たせてもらえません。次第に二位チームとの差が縮み始めるとJ2リーグは混戦の様相を呈し始め、ついには最終戦を残すのみとなった四十三節終了時点で何と、トップグループを形成する京都サンガ、アビスパ福岡に、夏以降驚異的な追い上げを見せたベガルタ仙台、ヴァンフォーレ甲府の四チームが勝ち点八十五で並んでいるという異常事態。しかもサンガはホームでの最終戦に甲府との直接対決を残し、さらに福岡と仙台も最終節、博多の森での直接対決に臨むという、何とも劇的な状況に置かれることとなったのでした。
 Jリーグの規定によって、最終節を終わった時点での一位と二位のチームはJ1へと自動的に昇格、三位のチームがJ1最下位のチームと入れ替え戦を行うことになっていますから、これは四チームの内、最終節一試合の結果のみによって少なくとも一チーム、さらに入れ替え戦に負ければ二チームが来年もJ2に留まってプレーしなければならないという、まさに天国地獄も紙一重の状況といえます。(作者注=この物語はフィクションであり、現実には二千五年のシーズン、サンガはもっと余裕をもって最終節を迎える予定であります)
 さて、そんな緊張感漂う状態で迎えようとしていた最終戦のその三日前の事、あるスポーツ紙の片隅に小さく、サンガに関する奇妙な記事が載りました。その見出しは、
 
 京都サンガ、最終戦に向け『英雄(えいゆう)』を獲得?
 
 と、いうもの。
 ところでこの記事、見出しも何だか意味不明なのですが、内容を読んでみるとこれが記事というよりはちょっとした一口話のよう。その中身はというと…この記事を書いた記者の(信頼に足る)知人が京都堺町の某喫茶店に入ったところ、坐った席のすぐ横の席にサンガの柱谷監督と美濃部ヘッドコーチがいて何やら話し込んでいた、そこで漏れ聞いた会話の中に『…やっと英雄が手に入った…最終戦で使いたい…』という監督の言葉があった、というもので、その『英雄』が何を意味するのかについては何も分かっていず、当の記者自身も【サンガが、嘗て『英雄』と呼ばれた事のある大物ベテラン選手の獲得に成功したという事なのか?しかしそのような移籍話は我々の耳には何も入ってきていないが…】と疑問符つきで記事を締めくくっているのでした。
 もちろん、この何ともつかみ所のない記事について、全く世間の話題にならなかったかというとそうでもありません。サンガ関連サイトのBBSには、『英雄』とは誰か?の推理を試みようとするサポーター達の書き込みが山のよう。そこでは様々な名選手の名前が乱れ飛んでいましたし、中には、監督が中国製の万年筆(『英雄』という名がついています)を買っただけだ、だの、音楽好きの監督がベートーベンのシンフォニー(第三番は『英雄』です)のCDを手に入れたのだ、だのととんでもない意見まで出る始末。
 でもそんな無責任な書き込みの山の中に、ちょっと気になるものも含まれていたのです…
 【初めてカキコします。今ウワサになってるあの『英雄』について。実はオレ、あの記事に出てくる堺町の喫茶店にいたんだ。オレ、レポートの徹夜明けで眠気覚ましにコーヒー飲んでたんだけど、ちょうど監督の真後ろに坐ってて、だから記者さんの知り合いの人より場所的に近かったかも。で、聞こえてきた話の内容は大体あの記事と同じなんだけど、ちょっとだけ違ってる。監督はあの時こう言ったんだ「…やっと英雄を手に入れた。友愛が英雄に変わるんだ。最終戦では是非使ってみたい…」ってね(HN=パープル三太)】
 さて、もしこの書き込みが本当ならまた新しい情報が加わった事になります。友愛が英雄に変わる?友愛って?英雄に変わるって?かくしてBBSは再び書き込みの山。でもそうこうする内、あっという間に週末となり、終に、Jリーグ・ディビジョン2、第四十四節、京都パープルサンガ対ヴァンフォーレ甲府戦、運命の朝の到来と相成ったのでした。
 
 二千五年十二月三日、土曜日、西京極スタジアム、北西の風、風力二、快晴。
 サンガの優勝、そしてJ1昇格の瞬間をこの目で見ようとスタジアムに詰め掛けた観衆の数は約二万人。J2の試合とはいえ、さすがにこの大一番には新聞やテレビ関係者等、報道陣の姿もあちこちに目立ちます。
 ゴール裏席をするすると上っていくのは、その前年に新調なったばかりの、二羽の鳳凰が重厚にデザインされたビッグフラッグ。その様子をピッチ上で見守っているのはサンガのチームキャラクター、真っ赤な二羽の鳳凰、パーサくんとコトノちゃんです。
 そしていよいよ選手の入場!
 
 ♪さあ行こうぜー、胸を張ってー、紫の勇者たち!
 
 サポーター達がタオルマフラーを高く掲げるともうゴール裏は紫一色。いいえ、この日はメイン席もSバック席も、全スタンドの殆どが紫の色で埋め尽くされています。
 二時五分、主審のホイッスルが鳴ってキックオフ。大歓声とともに両チームの選手たちが一斉に動き出しました。
 サンガのスターティングメンバーは前線一列目左からパウリーニョ選手にアレモン選手というお馴染みのブラジルコンビ。二列目は、前節勝利に結びつくファイト溢れるプレーにより負傷欠場となったキャプテン中払選手に代えての左サイド美尾選手に、斉藤・米田各選手のダブルボランチ、右サイドに星選手。三列目、ディフェンダー三上・リカルド・手島・大久保の各選手にゴールキーパーが平井選手という布陣。一方の対戦相手甲府の前線には、昨年大宮にいてJ1昇格に貢献した、俊足で上背もあるフォワードのバレー選手が陣取っており、これは警戒しなければなりません。
 序盤は京都、甲府、一進一退の攻防。ベンチで戦況を見つめるのは名将柱谷監督。しかし、詰め掛けた二万人サポーターの中で、監督の傍らに見慣れないジェラルミンケースが置かれていることに気づいた人は一人もいませんでした…。
 と、ここで試合が動きます。
 最初の得点はヴァンフォーレ甲府。前半二十分、セットプレー直後の紫と白のユニホームが入り乱れるゴール前の混戦に、上手く詰めていた甲府のフォワード小倉選手がこぼれ玉を強引に押し込んでゴール…。
 三上選手が天を仰ぎ、地面を叩いて悔しがっているのはキーパー平井選手。満員のスタジアム全体が大きくどよめき、ゴール裏席からは誰かが大声で「切り替えろ!」と叫びます。
 そしてサポーター達の大合唱、
 
 ♪ム・ラ・サ・キ・魂、俺たち・の・京都!
 
 そう、まだ前半。このシーズンのサンガは、開幕水戸戦で二点のビハインドをひっくり返しての勝利を手始めに、一体何度わくわくする様な逆転劇を演じてきた事でしょうか。
 事実、それまでサンガの攻撃陣は甲府のセンターバック、アレックス・オリベイラ選手にチャンスの芽を上手に摘み取られていましたが、サポーターの声援に後押しされてか次第に押し込む時間帯も多くなってきます。
 そしてサンガ側に得点の匂いが漂い始めた前半四十分、米田選手からのボールをパウリーニョ選手が受けます。すぐに甲府のディフェンダー二人が囲むも、ボールはパウリーニョ選手の足元に納まると途端にミクロ粒子にでも変わったかのような不確定性を孕んだ動きを始めます。そうこうするうち、良い様に翻弄されているディフェンダーの股を見事に抜いて、走りこんできたアレモン選手に絶妙のタイミングでパスが通った!
 キーパーと一対一。アレモン選手が右足でサンバのリズムを思わせる陽気なステップを踏むと、ボールは完全に読みを外されたキーパーの横を抜けて大きくゴールネットを揺らしました。
 同点!
 
 ♪アレモーン、アレモーン、アレモン、アレモン、ラッラー
 ♪パウリーニョ、オ、パーウリーニョ、オ・レー!
 
 このシーズン、何度も見てきたご存知ブラジルコンビの見事なプレー!
 ゴール裏では飛び上がる人、ハイタッチをする人に抱き合う人。そして「サンガゴーゴー」の大合唱です。
 と、ここで前半終了のホイッスル。湧き上がる拍手の中、両チームの選手達が闘志を胸に秘めたまま、ゆっくりとピッチを去っていきました。
 ハーフタイム…しかし、休戦のひと時にも、この日に限ってはサンガサポーター達の表情に、緊張からの一時的な開放といったものはあまり見られません。それどころかゴール裏席で立って応援を続けていたサポーター達の大部分が坐ろうともしない…先の得点時とは打って変わった硬い表情で、静かに、ただピッチを睨むようにして立ち続けたままなのです。何故でしょうか?なぜなら…同点では駄目なのです。それは負けに等しい、今日勝たなければこの一年間がフイになってしまう!
 その理由は得失点差にあります。即ち、四十三節を終わった時点で優勝・昇格を争う他の三チームが得失点差でも同点で並んでいるのに対し、サンガだけはこれらのチームに僅かに一点、負けているのでした。
 もしこの試合がこのままドローで終わるような事があると、博多の森の福岡と仙台が引き分ければ勝ち点・得失点差の関係は変わらずサンガは四位に終わる。仮に福岡、仙台のどちらかが勝ったとしても、甲府に得失点差で負けているサンガは三位以上にはなれず、このままでは悲願のJ1復帰は大きく遠のく事になるのです!
 
 さて、再びホイッスルが鳴ると後半の始まり。両チームともメンバーを変えることなく穏やかな立ち上がりです。
 電光掲示板が映し出す他会場での途中経過によれば、博多の森では福岡が二対ゼロで勝っている模様。ですからリーグ優勝はちょっと苦しくなりましたが、この試合を勝ちさえすれば二位に滑り込める。J1に昇格できるのです。
 と、サンガベンチ、柱谷監督が動きました。
 後半二十二分、勝利の方程式、米田選手に変えてフォワード田原豊選手の投入、いよいよ千両役者の登場です。
 その結果は数分後に現れます。
 斉藤選手から美尾選手へ、そしてその美尾選手がサイドに持ち込んで蹴ったボールが虹のような美しい弧を描くと、良い位置にいた田原選手がジャンプ。甲府のディフェンダーに競り勝って豪快にヘディングでシュート、ゴール!
 一瞬の間の後、爆発したかのように沸き返るスタジアム。アレモン選手、パウリーニョ選手、他の選手達も次々と駆け寄って田原選手に抱き付きます。二対一、勝ち越し!
 もうサポーター席はお祭り騒ぎ。その後もサンガは攻め続け、何度か相手ゴールを脅かします。さあ、勝利へあと十数分!
 が、しかし…どうしたことでしょう、得点の後の選手達の動きがそれまでとは少し違っている。どこかぎこちなく、パスミスも目立ちます。
 そう、これが魔物というものなのです。ピッチに棲む魔物…この前年のシーズン、あれほど絶対的な強さを誇った川崎フロンターレでさえ、J1昇格のかかった試合では連敗しています。そしてその昇格へのプレッシャーという名の魔物が、今ここに来て、サンガの選手達に取り憑き始めたのです。
 次第にサンガは中盤でボールを奪われる事が多くなり、開き直ったかのようにリズムの良くなってきた甲府に攻め込まれ始めます、しかしサンガも必死の防戦。
 そしてもうあと少しでロスタイムにさしかかろうという時、再び柱谷監督が動きました。
 交代する選手は両サイドバック、この右と左にそれぞれ悟、和裕の二人の鈴木選手を入れるもよう。経験値の高い二人を入れてチームを落ち着かせようという意図の交代、といったところでしょうか。しかしディフェンダー二人を一度にとは…これはちょっと異例の采配と言えなくもありません。それとも何か特殊な理由でも…?
 と、この時、微かなざわめきが、満員のスタンドをさざ波の様に広がって行きました。博多の森球技場、福岡・仙台戦が、二対二のタイスコアをもって一足早く終了したのです。仙台が追いついた…ということはこのまま勝てばサンガは優勝!これはその情報をいち早く知った観客たちのざわめきなのでした。
 さて、こちら西京極はあとロスタイムの二分を残すのみ。ここで、奪ったボールで攻めあがるサンガ。
 
 ♪京都、アレアレ、オウオウ、京都、アレアレ、オウオウ!
 
 よしっ、いいぞ。ここでJ2に別れを告げる、駄目押しのゴールを決めてやれ!
 サンガサポーターの誰もがそう思った時、甲府のミッドフィルダー藤田選手にボールを奪われます。そして、そのままドリブルで前進かと思いきや、一気に前線へロングボールを蹴り込みました。
 ボールは前線でひとり残っていたバレー選手の前方へ。
 オフサイド…?
 しかし副審のオフサイドフラッグは上がらない。
 
 ♪京都、アレアレ、オウオウ…
 
 ゴール裏から響いていた、終了間際に決まって歌われるその歌声が、みるみる萎んでいきます。
 全力でバレー選手を追いかけるサンガディフェンス陣。しかしドリブルを繰り返しながら加速するバレー選手を止めることはもはや不可能。その前方にはキーパー平井選手がいるのみです。
 このときサンガベンチでは、ヒゲの美濃部ヘッドコーチがしきりに監督の顔と傍らに置かれているジェラルミンケースを見比べていました。
 その目がこう語っています。
 (監督、今こそあれを使いましょう、ケースの中にあるもの、この日の為に手にいれたあの「えいゆー」を!)
 しかし監督は腕を組んだままで動く気配はなし。口を真一文字に結んで戦況を見つめています。
 ピッチ上ではサンガゴール前に迫るバレー選手がいよいよ決定的な距離へと達します。そしてゴール左隅を狙って右足を振り抜きました!
 突進する重戦車のような強いグラウンダー気味のシュート球がゴールマウスめがけて吸い込まれて行きます。と、キーパー平井選手がコースを読んでいたかのように右足を出す。ボールはその足に当たって進路を変え、左ポストに当たります。倒れこむ平井選手。しかし跳ね返って速度を失ったボールはゆっくりと転がりながら再びバレー選手の正面へ戻っていく…万事休すか!
 と、そこへ鋭角に走りこんで来た手島選手がこのボールを大きくクリア!その瞬間、ピッチに試合終了の長いホイッスルが鳴り渡りました。
 (勝った…)
 スタジアムにおとずれた一瞬の静寂。
 パウリーニョ選手が胸でさっと十字を切ります。
 やがてスタンドのあちこちからゆっくりと拍手が湧き起こり、次第に強さを増して最後には大歓声となりました。
 優勝!そして悲願だったJ1への復帰!
 サポーター席では紫のタオルマフラーが一斉に振られています。
 
 ♪京都、アレアレ、オウオウ!
 
 ピッチ上には駆け寄って抱き合うサンガイレブン。どの選手も笑顔、笑顔。大きな仕事をやり終えた後の満足感が漂っています。
 と、ベンチの柱谷監督がおもむろに、傍らに置いていたジェラルミンケースを開けます。そして中から取り出したものは…?
 それは紫色に輝く英文字、『A』と『U』でした。エクソプラズマ(幽体)のように漂い揺らめいている、ほぼサッカーボール大のこの得体の知れない二文字AとU…エイとユー…エイ・ユーがそれぞれ二個ずつで二組。
 監督はピッチに向かって何か合図をすると、この『A』と『U』、都合四つの英文字を軽くトス、嘗て日本代表で鳴らしたキック力でピッチの中央へ次々と蹴り込みます。
 これを受けるのは既にアウェイゴール付近で待機していた悟、和裕の二人の鈴木選手。それぞれに『A』を腹、『U』を足に受け取ります、と…
 その時、スタジアムに信じられないような事が起こりました。
 悟選手、和裕選手の立っていた辺りから、赤い炎のようなものが天を目指して吹き上がります。そしてひとしきり揺らめきを繰り返した後、その二本の炎の柱は次第に形を整え、やがて巨大な生き物の姿へと変わっていったのでした。
 そして現れたのは、スタジアムの照明塔の高さを倍にしたよりもさらに高くにまで立ち上がった、頭高四十メートルにも達しようかという燃えるように赤い二羽の鳥。
 思いがけない幻影の出現!…しかし、これは果たして幻影なのでしょうか?鋭い眼光を放つ二対の眼はそれぞれに生気を帯びて宙を見据えていますし、首から胸、翼から長く枝垂れる尾羽へと見事に流れる羽毛の色は、朱鷺色から紅、緋、朱色、蘇芳と微妙に変化して、その鮮明さは羽毛の毛、一毛一毛の風にそよぐ様がはっきりと見分けられるほど。
 スタンドからは口々に驚きの声があがります。
 「火の鳥だ!」
 「いや、あれこそサンガの象徴、鳳凰に違いない!」
 しかし、その神々しい様を眩しそうに見やりながら、ある年配のサポーターは、ぽつりとこうつぶやきました。
 「…朱雀(すざく)か…」
 そうです。その姿こそ古来、中国陰陽道に言われるところの四神獣のひとつ、南方を守護する朱雀なのでした。その朱雀が伝説にある通り、今、サンガ・ビッグフラッグの図案そのままに、相対したつがいの鳳凰となってこの西京極のピッチに姿を現したのです。
 やがて二羽のうちの一羽が翼を大きく広げ、細長い首を天に向けると、ゆっくりと嘴を開きます。そして
 
 ほぅほぅほぅほぅほぅほぅーぅるるる
 
 啼くと、もう一羽もまたさらに高く嘴を伸ばし、
 
 おぅおぅおぅおぅおぅおぅーぅるるる
 
 と啼き交わします。
 鳳凰の名の由来になったと言われる雌雄二羽の啼き声…その二つの音程の協和和声となって溶け合う美しい響きが満員のスタンド全体を包み込むと、それは聖堂に置かれたパイプオルガンにもまさってまるで天上の音楽を聴くかのよう。啼き交わしの声は桂川を越え、西山の山並みをも越えて、遠く亀岡市でも聴かれたと伝えられています…。
 
 さて、ここは試合後の記者会見の会場。
 「もう皆さんもお分かりですよね」
 こう口を切ったのは柱谷監督。本来はリーグ優勝・J1復帰についての記者会見なのですが、質問の中身はどうしても例の朱雀の出現に集中します。
 「つまり我々は優勝、昇格の決定時に何か目出度いものをサポーターの皆さんに見ていただきたいと考えていた訳です。そこへスタッフから例の『A』と『U』を入手したという連絡が入り、ではということで本日のお披露目となったわけで…」
 ひとりの記者がたまりかねたように質問を挟みます。
 「ええ、わかっています。でも、我々がお聞きしたいのは、一体何故『A』と『U』の文字からあのような幻が現れたのかという事なのですが」
 監督の口元に笑みが浮かびます。
 「おや、ではお分かりにならなかったのかな?あの幻…朱雀はサトルとカズヒロのところに現れたでしょう?ふたりの姓は鈴木、だから…」
 言って監督はホワイトボードにローマ字を書き付けます。
 
 SUZUKI
 
 「…この『U』と『I』が『A』と『U』に変わると…」
 
 SUZAKU
 
 「…となるわけなんです。即ち、ユー・アイがエイ・ユーに変わって朱雀が出現した訳ですね」
 監督の説明にも、記者たちは何だか狐につままれたよう。
 別の記者が質問します。
 「ところで監督、後半のロスタイムに甲府のバレー選手が、キーパーの平井選手と一対一になった場面がありましたよね。あのシュートが決まっていれば、今日の優勝・昇格もなかったわけです。あそこでこのイリュージョンをお使いになろうとは思われなかったのですか?きっとあんなものがピッチに現れたら、バレー選手も驚いてシュートを外してしまうだろうし、あの朱雀は幻なのだから、幻=存在しないものを用いても反則にはならなかったと思うのですが、いかがでしょう?」
 これを聞いて監督の隣に坐っていたヒゲの美濃部ヘッドコーチがちょっと照れくさそうに俯きました。
 監督は真顔になって答えます。
 「もちろん僕はそんなものに頼らずとも、選手達がやってくれると信じていましたからね。それに皆さん、僕のモットーをご存知でしょう?」
 ちょっと間を置いて記者達をぐるりと見渡してから、監督はニヤリと笑って言いました。
 「フェアプレーですよ」
 
 というわけで、優勝、J1昇格に加えて朱雀まで出現し、京都のあまりサッカーに興味がなかった人々もサンガのことを知るようになると次のシーズンのスタジアムは大入り満員。やがて伏見に新スタジアムも完成し、サンガは以後、京都の人たちに、そして日本中のサッカーファンに末永く愛され続けたのでした……
 
   ☆   ☆   ☆
 
   ☆   ☆   ☆
 
 …おじいさんが語り終えました。
 ここは二十二世紀、林の中のおじいさんの家。
 おじいさんの話は、サッカーの事をほとんど知らない真理ちゃんにはよく分からなかったけど、おじいさんが、そのサンガというチームをとても愛しているという事はよく伝わってきました。それにしても、あの、お話の最後のところは…
 「ねえ、おじいさん」
 真理ちゃんが訊きます。
 「スタジアムに大きな鳥が現れたってお話、あれって本当にあったことなの?」
 おじいさんは大きくうなずきます。
 「もちろんじゃとも。何しろわしはその時、ばあさんと一緒にスタジアムにおって、この目ではっきりと見たのじゃからな」
 「じゃあスタンドに?」
 「いいや、スタンドじゃなくてグラウンドに立っておったのじゃ」
 「えっ?まさか、おじいさんってサッカーの…サンガの選手!」
 「いいや、選手じゃなくてのう…」
 おじいさんは言いながら壁に飾ってある写真の中の一枚を指差します。そこにはサンガの選手たちに混じって、ちょうど人間くらいの大きさですが、赤くて目のぱっちりした、可愛い二羽の鳳凰が写っていました。
 「わしとばあさんは、子供の頃、一緒にサンガのチームマスコットをしておったのじゃ。西京極で試合のある日は、試合前やハーフタイムにグラウンドに出て愛嬌を振りまいておった。その頃わしらは『パーサ君とコトノちゃん』と呼ばれておったが、これで西京極にやって来る京都の子供達には結構人気もあったんじゃよ」
 言われてみれば確かに、おじいさんのとんがった口は、光沢がなくなり萎んでしまってはいますが嘴と見えない事もありませんし、黒ずんだレンガ色の肌も元は赤かったのかもしれません。そして何よりそのぱっちりした大きな目が、古ぼけた写真の中でポーズを決めている『パーサ君』にそっくりなのです。
 と、
 ピィピィピィピィ
 となりの部屋から奇妙な声が聞こえてきました。
 「おお、ばあさんが目を覚ましたようじゃの」
 おじいさんが手招きをするので真理ちゃんもおじいさんと一緒にとなりの部屋へと入ります。
 「これがコトノばあさんじゃ」
 見るとそこには小さなベッドがひとつ置いてあり、中に頭に黄色いリボンをつけたかわいい鳥の赤ちゃんが、布団からちいさな首を覗かせて「ピィピィ」と鳴いています。
 けげんそうに振り向く真理ちゃんに、おじいさんが言いました。
 「わしたち鳳凰は不死鳥じゃから決して死なない、いや、死んでもまた生き返るのじゃ。ばあさんもほんのひと月ほど前に生き返ったばかりでのう、じゃから、赤ん坊の姿をしておるのじゃよ」
 そして、パーサおじいさんの言葉は次第に熱を帯び始めます。
 「のう、真理ちゃん。鳳凰が生まれ変わる時、時代もまた変わる。サンガがあの二千五年のリーグ優勝の後どうなったかと言えば、良い年もあったが、やはり低迷した年もあった。じゃが、サンガはたとえどんなに深いどん底に落ちるような事があっても、何度でも、不死鳥のように蘇ってファンを魅了し続けたのじゃ。そして二十二世紀の今、人の心は熱い気持ちを忘れ、サッカーすらテレビゲームの中に生き残っているに過ぎん。しかし、コトノばあさんは蘇った。時代も変わろうとしておる徴なのじゃ。やがて再び、京都が生んだ比類なきサッカーチーム、京都パープルサンガの復活と共に、あの頃のスタジアムの熱狂、人の胸に宿る熱い心がきっと戻ってくると、わしはそう信じておるのじゃよ!」
 おじいさんが強く語り終えた時、ベッドの上の赤ちゃんが「ピピーィ」と長く鳴きます。それはコトノおばあさんが、「きっと、きっとそうなるワ」と言っているように、真理ちゃんには聞こえたのでした。
 
                           (終わり)