『燦ヶ島(さんがじま)の秘密』
音宇作
 
 その朝、
 ダダダダダッ。
 戸外から聴こえてくるのは村の人たちの慌てふためいた足音。
 「おい、ほんとに消えていくらしいぞ!」
 「そりゃ、えらいこった、きっと、何か悪いことが起こる前触れに違げえねえ」
 そんな村人たちの騒ぎに、いつもは朝寝坊のアツシも目を覚まさずにはいられませんでした。
 ここは日本列島のどこか、海に面した、とある漁村。
 潮の香りを含んだ風と入り江に繋がれたたくさんの漁船。そんな特に変わった所のないこの漁村なのですが、ひとつだけ、ここの村人達が大層自慢にしているものがあります。それは何かというと、人家が連なるその入り江のちょうど反対側、小山のように盛り上がった急な斜面をどんどん登って行ったその先に、不意に目の前に開ける絶景です。
 そう、そこに立つと、眼下に広がるのは、三方が崖で囲まれた広大な湾とその湾内に点在する大小さまざまの十八の島々…ああ、その配置の妙の何という見事さ、美しさ!
 寺栄湾(じえいわん)…どこかで聞いたような名前のこの湾に浮かぶ島々(といっても人が住めるようなものではなく、海に浮かぶ十八の巨岩といった趣のこの小島たち)にはそれぞれに個性があって、まず真っ先に目を奪われるのが、寺栄湾の王者といった風格で湾の中央に屹立する最大の島、華島(かしま)。そしてこの華島を取り囲むようにして十七の島…平らな上面にびっしりと生えた木々が秋には真っ赤に紅葉する浦島や、側壁を常に激しい波が打ちつけている巌波島(がんばじま)などなど…。
 しかし、おお、何ということでしょう!そんな島のひとつ、紫色の苔むした岩肌が美しい島、比呂島(ひろしま)が、この朝、寺栄湾から今にも消え去ろうとしていたのでした…
 
    ☆       ☆       ☆
 
 アツシは小学五年生です。今年になって、関東の方からこの海辺の村へと引っ越してきました。
 ここはアツシのお父さんが生まれ育った村。関東地方でサラリーマンをしていたお父さんでしたが、アツシにはよく分からないオトナの事情で、お父さんは何も悪くないのに会社を辞めなければならなくなり、実家のあるこの村へと戻ってきたのです。
 「なぁ、アツシ、お父さんのようにならないためにも、お前はしっかり勉強して、いい学校に上がるんだぞ」
 という訳で、アツシは学校が引けるとほぼ毎日、隣の町にある進学塾へ、バス、電車と乗り継いで一時間かけて通っています。
 「比呂島が消えたんだって?」
 この日ちょっと早めに塾に着くと、アツシの塾友達、小学生なのに170センチはゆうに越えている大柄なユタカが話しかけてきました。ユタカはこの塾のある町に住んでいる都会っ子。塾ではアツシと肩を並べる成績優秀者で、もうひとりの南米系ハーフ、地元のサッカークラブでは十番を背負っているサッカー少年、羽田宇利雄(はだ・うりお、あだ名はパウリ)と三人合わせてこの塾の合格安全圏内スリートップと呼ばれています(目指すはもちろん地元で話題の難関中高一貫校、才教中学!)。
 「うん、今朝は村じゅうすごい騒ぎだった。でも後で学校の先生が言ってたんだけど、これはある程度予測できたことらしいよ。っていうのも先生が言うには、寺栄湾の島はみんな、海底からわき出したマグマの泡が冷え固まって出来たために(風呂の中でオナラをしたみたいなもんだって先生は言ってた)中が空洞になってて、何かきっかけがあると海底を離れて浮き上がってしまうことがあるみたいなんだ。だからどうやら湾の入り口に一番近かった比呂島が、潮の流れに巻き込まれて湾を出て行っちゃったってことらしいね」
 言いながらアツシはもう一度、今朝見たその光景を頭の中に思い描いていました。
 走る村人達の後を追って、パジャマのまま駆けて行くと、湾を見下ろす崖の上には、もうたくさんの人が集まっています。その視線の先には、海面にたなびく朝霧の中、静かに湾を後にする比呂島の姿がありました。
 「おおーい、比呂島ーっ、どこさ行っちまうだよーっ」
 比呂島が霧の中にすっかり消えてしまうと、そんな村人たちの叫び声も小さくなって、後はただただ寄せては返す波の音が聞こえるのみ。でもその時、アツシは傍に立っていた婆ちゃんがぽつりと洩らした呟きを聞き逃しませんでした。
 「さてさて、おんヒロさまが行ってしまわれただから、次はいよいよおサンガさまが来なさるべ」
 婆ちゃんの言葉からも分かるように、寺栄湾に浮かぶ十八の島々は昔から村人たちの信仰の対象でもありました。村人たちはそれぞれに、湾に浮かぶいずれかひとつの島を各家の氏神として崇めていて、今も寺栄湾を取り囲む三方の崖のもっとも高い場所、中央の華島をちょうど正面に見下ろす辺りには、簡素な木造の鳥居と、その奥に湾内の十八の島を御神体として祀る寺栄神社が鎮座しています。
 「ねえ、婆ちゃん、おサンガさまって?」
 来たばかりでまだ村のことをよく知らないアツシの問いかけに、婆ちゃんはにっこりうなづきました。
 「おお、アツシや。おサンガさまはな、ずっと前には…そう、わしがまだ娘じゃった頃にゃ、この寺栄湾にいなさった島のひとつなのじゃ。燦ヶ島といってウチの家の守り神でもあるのじゃが、それはそれは奇麗な島でのう、比呂島とおんなじ紫色の苔に覆われとって、それが朝日に照らされると見事にさんさん(燦燦)と輝くところから燦ヶ島と名前がついたんじゃよ。それがの、わしが十四になった年のこと、ある朝、さっき比呂島が行ってしもうたみたいに、寺栄湾から突然姿を消してしもうてのう…じゃが、もう大丈夫じゃ。おサンガさまが帰って来なされば、ウチの家も安泰。きっとお前の父さんのところにもまた運が戻ってくるに違いないて」
 婆ちゃんの話では、寺栄湾に留まれる島は(湾の広さとこの辺りの海流の関係なのか)十八島と決まっていて、時々その島が入れ替わるらしいのです。この何百年かのあいだに燦ヶ島をはじめいくつもの島々が、何度も寺栄湾に戻ってきては外海に漂い出るということを繰り返しているらしく、どうやら婆ちゃんは、比呂島が消えたから、その入れ替わりに燦ヶ島がやってくるに違いないと固く信じているようなのでした。
 「ふーん、じゃ、何十年かぶりに、その燦ヶ島の姿が拝めるかもしれないってわけだ」
 これまでアツシの話を黙って聞いていたユタカが口を挟みます。
 と、ふたりの背後からねっとりした声が、
 「うーん、その婆ちゃんの話って、わたしの聞いてるのとはちと違うわね」
 振り返るとそこには、ユタカに負けないほどのすらりとした長身、メガネの奥には意地悪なまなざし、口元にいやみな笑みを浮かべたひとりの女子が立っていました。算数理科の成績こそスリートップには及ばないけれど、国語や社会、特に歴史にはめっぽう強い文系偏差値の女王、性格はともかく顔だけは美少女の阪木羅衣(さかぎ・らい)です。
 「ねえ、アツシくん、あなたの婆ちゃんには悪いけど、わたしの聞いた話では、燦ヶ島は血塗られた島だと言われてるわ。昔、悪いことをした人たちはみんな燦ヶ島に連れていかれて処刑されたってんだって。だから燦ヶ島に生える苔には、同じ紫でも比呂島の苔とはちがって赤い血の色がまじってるってことよ。燦ヶ島の『さん』っていう字も、ほんとは悲惨の惨って字を使うのが正しいんだって。あらあら、これはとんだ氏神様だわね、ホーホホホホホ…」
 言うだけ言うと、阪木羅衣は笑い声を残してさっさと自分の席に帰って行きました。
 「ちぇっ、イヤなやつ!アツシ、気にすんなよな」
 ユタカの言葉にだまってうなずいたアツシでしたが、実はアツシも阪木羅衣の言ったことについては、今朝、比呂島が消えるのを見たあの崖の上で、誰かが同じようなことを話していたのを耳にしていました。
 (あれは…あの話し声は確か村の村長さんと駐在さんだった…)
 このことが気になって、この日は塾の勉強に身が入らず、アツシはめずらしく算数のテストで大失敗をしてしまい、結局一時間の居残りを食らってしまいました。塾を出てから電車、バスと乗り継いで、村の最寄りのバス停に降り立ったのはもう満月が空高くにある時刻。
 (ああ、ずいぶん遅くなっちゃった)
 バス停からアツシの家まではそう遠くはないのですが、寺栄神社のそばを通るため、近道をするには、神社を囲んでいる鎮守の森の暗闇の中を抜けていかなければなりません。
 夜の神社は不気味で、遠回りをしてでも普通の道を行きたいところを、エイッと自分に気合を入れると、ダダダダダッと鎮守の森を駆け抜けます。
 と…
 …シクシク…シクシク…
 神社の社務所があるあたりに差し掛かったとき、どこからともなく女の子のすすり泣く声が聞こえてきます。
 アツシは足を止めてあたりを見回しました。すると、月明かりの中、社務所の裏に何か木で造られた大きなオリのようなものが置かれていて、上に掛けられている青いシートのすきまから、その声は聞こえてくるようです。
 恐る恐るシートを持ち上げると、
 「あっ!」
 思わずアツシは声を上げてしまいました。
 木のオリの中には確かにひとりの女の子が囚われていました…いいえ、人間の女の子ではありません。体中をおおっている真っ赤な羽毛、ぱっちりした目と黄色いくちばし、紫色のシャツを着て額には大きな黄色いリボン…。
 「き、君は…鳳凰?」
 と、その時アツシは、社務所の中からかすかに、押し殺したような女の声が聞こえてくるのに気づいたのです。しかも、聞き耳をたててみると、声はこう言っているように聞こえました。
 …ちじゃ…ふしのち…ふしのちがいるのじゃ…
 
    ☆       ☆       ☆
 
 『コトノちゃん誘拐さる!』
 そんな活字がKY新聞の一面に躍ったのは冬も終わり、ようやく寒さがゆるみ始めた3月8日、奇しくも日本中のサッカーファンが待ちわびていた2008年度Jリーグ開幕その日の事でした。
 コトノちゃんは鳳凰の子どもです。同じく鳳凰の子ども、パーサくんと一緒に京都唯一のプロサッカーチーム、京都サンガFCでチームマスコットのお仕事をしています。
 その京都サンガFCはこの2008年、日本プロサッカーのトップリーグであるJ1に復帰したばかり。J開幕のこの日のサンガの対戦相手はJ1の中堅チーム、名古屋グランパスです。
 初戦の舞台は名古屋郊外にある豊田スタジアム、ということでホームの西京極ではなくて残念ながらアウエー…いいえ、これを残念といってはバチが当るのではないでしょうか。京都からさほど遠くないアウエーで、しかも豊田スタジアムは開閉式の屋根を備えた日本屈指のサッカー専用スタジアムなのですから。
 キックオフを数時間後にひかえ、名鉄の駅からスタジアムまで、初春ののどかな日差しの中をたくさんのサッカーファン達、自分の応援するチームのユニホームを身にまとったサポーター達の長い行列が続きます。名古屋のカラーである赤に混じってサンガ紫のユニホームの人達の姿もちらほら。そして、やがて見えてくる、優雅なカーヴが未来都市を思わせるデザインの白い橋と、その向こうに、地上に降り立ったUFOのような巨大スタジアム。
 その異空間に通じる門をくぐると、楕円形をした巨大なすり鉢の底、屋根を開放しているために柔らかな日が差し込むピッチ上では、昨年のサンガレギュラーに加えて柳沢、佐藤、増嶋、シジクレイといった新加入の面々がアップを始めています。
 一方の名古屋はといえば玉田やヨンセン、マギヌンに藤田俊哉といった強力メンバー、さらに加えてその指揮を執るのが2001年まで名古屋でプレーし、今季は監督として戻ってきた名選手、ピクシーことストイコビッチというのですからやっぱりJ1の華やかさはこたえられません。
 「おい、KY新聞の朝刊見たか?」
 「ああ、見た見た、コトノちゃんが誘拐されたって?」
 開幕の浮き立つような気分の中でも、人気者コトノちゃん誘拐のニュースはスタンドにいるサンガサポーターたちの間をかけめぐりました。
 KY新聞は京都の地元紙で、試合の前日には次節の試合の見所を『加藤監督の絵付き』で紹介してくれるので、サンガのサポーターには大変重宝されています。新聞記事によると、コトノちゃんはその前の日の昼過ぎ、サンガタウンのグラウンドでひとり、応援の練習をしているところを、突然現れた数人のやや年配の男達に、車に乗せられ連れ去られたそうです。その場面をたまたまその場に居合わせたサンガのスタッフが目撃していたとのことでした。
 もちろん、ここはグランパスのホームなので試合のマスコットはパーサくんとコトノちゃんではなく、名古屋側の可愛い四頭のシャチ、グランパスファミリーが務めるのだけれど、ゴール裏にコトノちゃんのいつもの元気な姿が見えないことにサンガイレブンも心配そう。試合前のロッカールームでは、加藤久監督が選手達を前に、この件で決して動揺することがないようにと指示しました。
 「この瞬間にも警察はコトノちゃん救出のために全力で動いてくれている。我々は、今はとにかく目の前の試合に集中しよう!」
 パウリーニョ選手が胸の前で静かに十字を切ります。
 「ボク、今、神サマニ願ヲカケタヨ。ダカラ、ボクガ今日ノ試合デゴールヲ決メタラ、ソシタラ、コトノチャン、キット、帰ッテクルヨ」
 後で振り返ってみれば、この事件の真相、その犯人については、実は先のKY新聞のサンガ記事の中に暗号のような形で隠されていたのです。しかしこの時点ではまだ、パーサくん、サポーターたち、そして加藤監督をはじめとするサンガ関係者の誰一人として、一体どのような人物によってこの誘拐が成されたのかについては知る由もありませんでした。
 
    ☆       ☆       ☆
 
 さて、ここは再び寺栄湾を望む崖の上、寺栄神社の境内。
 今、社務所裏の人目につかない場所へと運ばれたオリの中には、コトノちゃんに加えてもうひとり、小学五年生のアツシも囚われの身となってしまっています。
 というのも、昨夜、塾の帰りに監禁されているコトノちゃんを見つけたアツシでしたが、その時、
 「誰だ、そこにいるのは!」
 社務所から出てきたのはアツシの見覚えのある男たち、寺栄神社の宮司さんに村長さん、それにこの村の駐在さんも。
 社務所の奥では白装束に赤い袴の巫女の装い、顔は能面のように白粉で固めた気味の悪い女が「…ふしのち…ふしのちがいるのじゃ…」とつぶやき続けています。
 「うーむ、見てしまった限りは、かわいそうだが返すわけにはいくまいて」
 村長さんが言うと、駐在さんが奥から持って来た手ぬぐいを手に、アツシの前に立ちふさがります。
 「悪いが、ちょっと眠ってもらうだよ」
 いきなり口を手ぬぐいでふさがれたと思ったら、強烈なクロロホルムの匂いにアツシの意識は次第に遠ざかって行ったのでした…。
 ………
 狭いオリの中。
 まわりは昼の明るさ。
 そして、アツシの顔を覗き込んでいるのはふたつの大きな目。
 「あっ、気が付いたワ。ねえ、あなた、大丈夫?」
 「き、君は…?」
 「あたしはコトノ」
 「ああ、きのうオリの中で泣いてた鳳凰の子か…僕はアツシ、小五だよ」
 アツシとコトノちゃんは互いに簡単な自己紹介をし合ったあと、さっそく情報交換を始めます。
 「ふーん、じゃあコトノちゃんは、京都で村長さんたちにさらわれて、ここに連れてこられたんだね」
 「うん、そうなの。ホントだったら今日はサンガの開幕戦がある日だから、今頃は名古屋まで応援に行ってるはずなのに…多分、もうそろそろキックオフの時間だワ。ああもうっ、何でこんなことになっちゃったのよう!」
 アツシはサッカーは好きでよくテレビで観ていたけど、本当言うとサンガのことはあまりよく知らなかったので、コトノちゃんのこともこの日初めて知りました。
 「でも、村長さんたちは、どうしてコトノちゃんを誘拐したんだろう?」
 「うん、それがね、ここへ連れてこられる途中の車の中で村長さんたちが話してるのを聞いて分かったのは、もうすぐこの村に『おサンガ様』とかいう神様がやって来るらしいの、それでそのおサンガ様は血に飢えている神様らしくて、そのおサンガ様にいけにえを捧げないといけないみたいなのね」
 「ああ、そのおサンガ様っていうのはぼくの婆ちゃんが言ってた燦ヶ島のことだよ。でも、婆ちゃんの話だとおサンガ様ってそんなに恐い神様じゃないはずなんだけどな…」
 「ええ、それが、どうやら話の出所は、全部あの気味の悪い巫女さんらしいの。あの巫女さん、一週間くらい前に突然この神社にやってきて、いきなりペタンと床に座ると、憑かれたような目になって『おんヒロさまが消えて、おサンガ様が来なさる。おサンガ様は血を欲しがっていなさる。血を捧げないとこの村は大変な災厄に見舞われる』って何度も繰り返したんだって。宮司さんも最初は全然取り合わなかったみたいだけど、昨日の朝、ホントにそのおんヒロさまが消えてしまったらしくて…」
 「それであわてて村長さんたちに相談して、コトノちゃんを誘拐したってわけか。コトノちゃんは鳳凰だから死なない。つまりコトノちゃんをいけにえにすればおサンガ様に不死の血を捧げられるっていうことなんだ…」
 その時、オリのそばに人の気配。
 「おやアツシくん、気が付いたみたいだな」
 見るとそこには、村長さん、駐在さん、宮司さんの三人が立っていました。
 「ひどいワ!村長さんたちったら、アツシくんには何の関係もないのに!」
 コトノちゃんが、キッとした目で三人を見上げます。
 駐在さんが気弱そうな声で、
 「ああ、いやいや、アツシくんまでいけにえにするなんてつもりはないんだよ。お家の人にも急に塾の特別合宿が始まったからといって電話をしておいた。駐在のわしが連絡したから、お家の方も安心しておられたようだ。あとは無事に鳳凰の血をお捧げして、おサンガ様が満足なされたら、もちろんアツシくんはすぐにでもお家の方にお返しするよ」
 アツシがオリのわくをドンと叩いて言い返します。
 「何言ってんだよ、駐在さん!あんたは人の命を守る…あ、いや、トリの命も守らなくっちゃいけない警察官だろ、コトノちゃんに指一本でも触れたらぼくが黙っちゃいないからなっ!」
 そんなアツシの叫び声が湾にこだました正にその時、不意に風向きが変わり、北の方から冷たい風が吹きつけます。鎮守の森の木々が揺れてざわめき、波のうねりが大きくなって、空が次第に暗さを増し始めると、
 ガラガラピシャン!
 激しい雷鳴に稲妻。いきなり落ちてくるのは、まるで小石をばらまいたような大粒の雨。そして、
 キエエーッ!
 奇声とともに社務所の中から、あの不気味な巫女さんが走り出て来ました。
 「おサンガ様じゃーっ!おサンガ様が来なさったぞーっ!」
 言いながら巫女さんが指さすその先を見ると、もはや昼とは思えない暗い空の下、寺栄湾の外海に、何か黒い島影のようなものが見えます。激しい雨に煙る海面をゆっくりとこちらに向かって来る『それ』は、だんだんと大きさを増し、やがて湾の中へと入る頃には、その外観がどのようなものかはっきりしてきました。
 湾内を進んでくるのは長さ五十メートルはあろうかと思われる岩のような細長いかたまり。赤茶けた表面のあちこちから時々激しく蒸気を噴出している『それ』の中央にはさらに一段高い数メートルの突起があって、その周囲を何匹ものコウモリがギャアギャアと声を上げながら飛びまわっています。
 「あれが燦ヶ島…?」
 村長さんたちの戸惑うようなつぶやきに、巫女さんが叫びます。
 「そうじゃ、あれこそが伝説のおサンガ様。さあ、ぼやぼやしてないでオリの中の鳳凰と子どもをお捧げするのじゃ!」
 「えっ?アツシくんまで?」
 「もちろんじゃ、お捧げする血の量は多ければ多いほうがおサンガ様もお喜びなさるでな」
 と、
 バシッ!
 どこからともなくサッカーボールが飛んできて巫女さんの背中を直撃します。
 「な、何をする!」
 振り向くとそこには降りしきる雨の中にふたりの少年、アツシの塾友達、親友のユタカとスリートップのもうひとり、波田宇利雄ことパウリが立っています。
 ユタカが言います。
 「アツシの家に電話したら、塾の合宿だっていわれたけど、この時期に塾は合宿なんてしていない。心配になって来てみたら案の定だ」
 対する巫女さんの表情は怒りに大きくゆがんでいます。
 「ムムム、神の使いであるわしにボールをぶつけるとは罰当たりな!大体、わしはサッカー嫌いなのじゃ…」
 (えっ、まさか…)
 アツシがオリの中から指差します。
 「ユタカ!そ、そいつの正体は…」
 言い終わる間を待つまでもなく、激しい雨が巫女さんの顔の白粉を流し去るにつれ、その下にどこかで見た事のある顔が現れてきました。そう、今はメガネこそかけていないけれど、両の目が知的な輝きを放つあの美少女の顔…
 「あっ、おまえは、阪木羅衣!」
 ユタカとパウリが呆然と見詰める中、巫女さんは後ろで束ねていた髪をほどいて、頭を大きく振ります。
 「ええ、その通りよ。アツシくん、どうして分かったの?」
 「だって、今、自分で言ったじゃないか、『わしはサッカー嫌いなのじゃ』…さっかーぎらいじゃ…阪木羅衣じゃ、って」
 「ほほほ、それはうっかりしてたわね。でも、もう今となっては正体がばれたって別にかまわないわ。とにかく私にはそこにいる鳳凰の不死の血が必要なの。だから、今、それを頂くまでよ!」
 そう叫ぶと阪木羅衣はオリに手をかけ、少女の力とは思えないほどすばやく崖のところまで引きずって行って、一気に下へと突き落としました。
 「あっ、アツシ!」
 オリは、中にいるコトノちゃん、アツシもろとも落下して海中に没し、一度見えなくなったかと思うと、しばらく後にバラバラになった外枠だけが海面に浮かび上がってきます。
 「じゃあ皆さん、お元気で!」
 言って阪木羅衣も後を追うように崖からジャンプしました。
 そしてユタカとパウリ、村長さんに駐在さん、宮司さんの五人が崖の上で見守る中、その姿は雨に煙る波間へと消えてしまったのです…。
 
    ☆       ☆       ☆
 
 さて、場面は変わって、こちらは豊田スタジアム。
 試合の経過は皆さんご存知の通り、前半9分にパウリーニョ選手がPKを得て、自らの足で先制点を挙げたのですが、後半に入るとすぐに名古屋のヨンセン選手にゴールを決められてしまいます。でも、考えてみれば、特に前半の、一点リードしてからのサンガの動きの硬さや連携のぎこちなさなどは、二年ぶりJ1となる開幕戦の緊張や新加入選手が多いということのみならず、コトノちゃんの行方が知れないことへの心配が、選手達の心に少なからず影響を与えていたと言えなくもないのです。
 「えっ、パーサくんも行方不明なんだって?」
 サンガスタッフの間でそんな会話が交わされたのはそのヨンセン選手に同点にされたすぐ後のことでした。
 「ああ、何でもハーフタイムの少し前まではゴール裏席にいたらしいんだけど、サポーターの人たちの話によると、屋根の切れ目から見える空をながめていたかと思ったら、急にどこかへ姿を消したみたいなんだ」
 ………
 
    ☆       ☆       ☆
 
 イタタタタッ
 海に落ちたアツシとコトノちゃん。気がつくとふたりは薄暗い部屋の中にたおれていました。見回せば周りは、床に固定された重々しいテーブルやソファ、壁に掛けられたいかめしい顔の肖像画と、まるでヨーロッパの古い館の中にいるようなゴシック風のつくり。でもなぜか壁は所々にリベットを打ち込んだ鋼鉄で出来ていて、部屋全体が細長く、しかも左右にゆっくりと揺れています。
 アツシはずぶぬれ(でもコトノちゃんはもう乾いてる、何しろ体が火で燃えてますからね!)、ふたりとも縄でしばられていて、体中のあちこちが打ち身のために痛みます。
 と、目の前に、長い髪をバスタオルで拭きながら立っているのは阪木羅衣。
 「ここはどこなんだ?」
 アツシが問いかけます。
 「燦ヶ島の中よ、いいえ、本当は燦ヶ島なんてありゃしない。島のように見えたのは私たち一族の所有する大型潜水艦。ここはその内部ってわけ。私たち一族はね、この艦であちこち旅をして、土地の人たちをこちらが勝手に作った伝説でだまして生き血をいただきながら、もう百年以上、同じ若さを保ったままで生き延びているの。だからこの艦の表面には、長年の航海で苔や海草がたくさんこびりついていて、まるで島のように見えるのよ。ほら、むこうでこの船を操ってるのが私の兄さんたち」
 目が慣れてくるとたしかに、部屋の奥にはさらに一段低くなった小部屋のような一角があり、そこにはかつて『海底二万哩』という映画で見たような、どこか時代を感じさせるレバーや計器、潜望鏡といった装置が設置されています。そんなものものしい機械類を相手にてきぱきと動いているのは水夫の服を着た四人の若者…あ、いえいえ、よく見るともうひとり。機械類のあるあたりとは逆の側の船の側壁に、ちょっと周りの雰囲気にはそぐわない感じで最新式の薄型テレビが置かれていて、ひとりはこのテレビに釘付け。
 「おい、仕事しないで何見てんだよ」
 「あ、いや、このBSでやってるサッカー中継なんだけど、中々面白いぜ。サッカーなんて今まで見たことなかったけどさ」
 そのテレビからもれ聴こえてくる音声を聞いてコトノちゃんが叫びました。
 「あっ、それ、今、豊田スタジアムでやってるサンガ対グランパスの試合だワ!」
 音声から判断すると、どうやら試合はもう後半に入っていて、名古屋側、ヨンセンのゴールで同点となり両チームが再びスタートラインに立ったところ。
 
 ラーララララララーララ-、ラーララララララーララ-
 フォルツァ・ビオラエー フォルツァ・ビオラエー
 フォルツァ・フォルツァ・フォルツァ・ビオラエー!
 
 サンガにとってはアウエーの豊田スタジアム。でも画面には、決して少なくない数のサンガサポーター達が、紫のタオルマフラーを高く掲げて回しながら、チームを鼓舞する応援歌を力強く歌っているようすが映し出されます。
 「もうっ、兄さんったら、わたし、サッカーは嫌いって言ってるでしょ!」
 阪木羅衣の抗議にも、その、兄の中で一番年下と思われる若者はテレビのスイッチを切る気配はありません。
 画面では、名古屋、竹内選手のクロスを玉田が胸で落としてヨンセンが左に振る。ここに小川選手が走りこんでシュート!しかしこれは倒れこんだキーパー平井のつま先に当ってわずかにコースが変わり、ポストの下端で跳ね返ります。ボールは運良くも来た道を引き返すようにキーパーの手元へところがり、これを平井ががっちり受け止めた!画面の中で、平井選手が戻ってきてくれたボールに思わず感謝のキッスをしています。スピーカーから響いてくるのは二万六千人を越える大観衆のどよめき。
 と、
 「あ、あれは何だ?」
 潜望鏡をのぞいていた若者が声をあげます。
 「何か大きな赤い鳥のようなものがこちらをめがけて飛んでくるぞ!」
 そして、
 カン・カン・カン・カン…
 鋼鉄製の船体を、外側から何か硬いもので叩く音。
 「パーサくんだワ、パーサくんが助けにきてくれた。パーサくんのくちばしは強力だから、こんな古ぼけた船体の壁なんてすぐに破ってしまうワ!」
 コトノちゃんの言葉に、阪木一族の長兄らしき若者が叫びます。
 「いかん、速やかに潜水して振り落とせ!」
 「だめだよ兄さん。湾の中では浅すぎて、潜航したら腹をこすってしまうよ」
 「それじゃ、まず湾を出よう。エンジン始動、取り舵一杯、全速前進!」
 「復唱します!エンジン始動、取り舵一杯、全速前進!」
 艦が大きく右に傾いて、回転を始めたスクリューの水を打つ振動が艦内にも伝わります。消し忘れのテレビからは、引き続き実況するアナウンサーの声、
 「…サンガ、渡辺大剛から『クロス』が入る。これをキーパー楢崎がパンチング!まだある、中山が胸トラップからシュート!…これは相手ディフェンダーに当って事なきを得た…」
 「…右サイドからの玉田の『クロス』はファーサイドへ、ディフェンダー増嶋と名古屋の竹内が競り合う、こぼれ落ちたボールをマギヌンがシュート!…しかしこれは大きくバーの上…」
 カン・カン・カン・バリッ!
 祈るような気持ちで見上げていたアツシとコトノちゃんの視線の先、パーサくんの頑張りでついに天井が破られ、空いた穴から黄色いくちばしの先が現れました。
 「やったーっ!」
 その時、
 (ん…?)
 艦内に目を戻したアツシが怪訝そうな表情。
 「ねえ、コトノちゃん、あいつら、ようすが変だよ」
 アツシの言葉を待つまでもなく、コトノちゃんもその異変に気づいていました。阪木六兄妹が皆、顔をおおって床に膝をついているのです。
 「ううっ、く、苦しい…早くそのテレビを止めて…」
 言って頭を上げた阪木羅衣…そこにあるのは何と白髪に皺だらけの老婆の顔。他の兄達も皆、いつのまにか老人に変貌していて、もはやリモコンを取り上げてテレビを切る力さえありません。
 アツシが叫びます。
 「そうか、分かったぞ!あいつら血を欲する一族は、伝説にある通り、『クロス』に弱いんだ。なぜって『クロス』は英語で『cross』、つまり十字架だからね!よしっ、サンガの選手も名古屋の選手も、もっともっと『クロス』を入れてやれ!」
 そうこうするうちにも艦は外海へ、そしてテレビの音声は試合が三分間のロスタイムに入ったことを告げました。
 「…増嶋からのロングスローを佐藤勇人がシュート!これはわずかに左に逸れた!…もうほとんど時間はありません。サンガ、渡辺大剛がボールを奪って田原へ、前を向いた田原、前を向いてサイドからグラウンダーの『クロス』!この『クロス』は決定的だ!ああっ、しかし柳沢、柳沢決められない!…」
 ギャーッ!
 テレビから聞こえるサンガサポーターの悲鳴に重なって、艦内にも悲鳴が響き渡りました。
 見ると、艦の床に横たわっているのは阪木六兄妹。もはや生気はなく、その体は今、灰となってぼろぼろと崩れていきます。同時に、天井に大きく空いた穴からはパーサくんの顔がのぞきました。
 「さあ、ふたりとも、この穴から脱出だ!」
 しかし、
 …ゴゴゴゴゴゴゴッ…
 外海に出る直前にレバーが操作されていたのでしょうか、どうやら艦は側面の傾斜翼を下方に向けて潜水を始めたもよう。
 「ああっ、大変!穴から水が入ってくるワ」
 パーサくんがすばやく艦内に体を滑り込ませると、二人の縄を解きます。でも水は腰のあたりにまで押し寄せている。穴から這い出ようにも流れ込んでくる水の圧力が強くて、すぐに押し返されてしまいます。艦を浮上させるにも一体どのレバーを操作すればよいのか分かりません。そうこうする内にもう水は胸の辺りに達した。ああ万事休すか!
 ところが、
 「あれっ?」
 なぜか急に艦の体勢が水平になり、ゆっくりと浮上し始めました。浸水も止まり、穴の向こうには、さっきまで空をおおっていた黒雲は去ってきれいな青空がのぞいています。
 そして、艦の外からは元気な声が、
 「僕たちだよ。ピクシーの指示で助けに来たんだ!」
 「あっ、その声はグランパスくん!」
 そうです、名古屋から可愛い四頭のシャチ、グランパスくんにグランパコちゃん、グランパスくんJrに赤いグララのグランパスファミリーが駆けつけ、潜水艦の底に張り付いて艦を押し上げてくれているのです。
 「水の中のことなら僕たちシャチにまかしときな!さぁ、今から艦を陸の方へ誘導するからね!」
 
    ☆       ☆       ☆
 
 一夜明けて、ここは京都、城陽市のサンガタウン。試合の翌日とあってオフ日となったサンガの選手たちが、コトノちゃんの帰還を祝うためにクラブハウスのロビーに集まってきました。
 「ネ、言ッタトオリ、ボクガゴールヲ決メタカラ(PKダケド…)、コトノチャン、無事ニ帰ッテ来タデショ!」
 ちょっとはにかみながらもにっこりと笑うコトノちゃんを前に、パウリーニョ選手が神様に感謝のお祈りを捧げます。
 「雲の柱が見えたんだ」
 と、パーサくんが言います。
 「豊田スタジアムの屋根の切れ目からね。僕たち鳳凰の体は絶対に消えない火で燃えてるから、もし海に落ちるような事があると、体の周りの海水は一気に蒸発して上昇気流となる。すごい勢いで立ち昇った水蒸気は上空で冷やされて水滴に変わり、空の高いところに縦長の雲、すなわち雲の柱を作る。この雲の柱が見えたから、コトノちゃんの居場所が分かったんだ。それでその雲を目当てに飛んで寺栄湾へとたどり着き、ユタカくんたちから状況を聞いて、二人があの潜水艦の中にいるって事が分かったんだよ。あとで聞くとグランパスファミリーも、ぼくが飛び立つのを見て事情を察したストイコビッチ監督に、パーサくんを助けてやりなさいと指示されて後を追ってきたらしい。その時監督はグランパスくんに、『試合では敵同士でもピッチを離れば皆サッカーを愛する仲間だからね』って言ったんだって。泣かせるなぁ」
 …というわけで、めでたし、めでたし。心配事も去り、選手たちの表情に笑顔がもどってくると、京都サンガFCはもう皆さんもご存知のとおりの快進撃。まず、次の二節、ホーム西京極で見事、大宮アルディージャを撃破!続くナビスコカップでは件のストイコビッチ監督率いる名古屋に勝利!強豪浦和レッズにも3対3、追いついてのドローと負け知らず。以後四月に入ってからも天敵、あの川崎フロンターレを完封で下すなど、大方の予想をはるかに上回る好結果をあげ続けています。思えばJ1の先輩、グランパスくんのいる名古屋も六節で首位に立つなど絶好調であることから、ひょっとしたらあの豊田スタジアムでの開幕戦は、実は今年のJ1の頂上決戦だったのかもしれない…なんて言ったら言いすぎでしょうか?
 「アツシくんたち、今頃どうしてるかなぁ…」
 今日も勝った試合を応援しての西京極からの帰り道、東寺五重塔の上空を南に向かって飛びながら、コトノちゃんがふと、夕焼け空を眺めてつぶやきます。
 あの日、グランパスファミリーに助けられて潜水艦から救い出された後、岸壁にいた村長さんたち三人の大人は警察に逮捕され、コトノちゃんやパーサくん、そして子どもたちも警察署で色々と質問に答えたのですが、その後は、アツシくんたちがそのまますぐにパトカーで家の方に送られたため、コトノちゃんにしてみれば、ゆっくりとお別れをする時間もなかったのでした…
 
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 さて、こちらは再び寺栄湾を見下ろす崖の上。
 アツシ、ユタカ、パウリの三人が、寺栄神社の鳥居前にある石段に腰掛けて、さっきコトノちゃんが京都で見たのと同じ夕焼けを眺めています。
 塾は授業調整日でお休み。事件の後、一息つく間もなく塾の春期講習に臨んだ三人でしたが、そんなハードな春休みを乗り越えたと思ったら今度は学校がすぐに新学期。六年生に進級してますます多忙となった三人にとってこの日は、塾から解放され、久しぶりにゆっくりと過ごせる貴重な日なのです。放課後、アツシはユタカとパウリを自宅に呼び、三人で(サンガスポンサーのひとつ、NT堂の)DSをして遊んだ後、気分転換にと連れ立ってこの崖の上へやって来たのでした。
 神社から見下ろす寺栄湾には華島をはじめとする十七の島々、その華島のやや左上空にかかるのは真赤く燃える沈みゆく太陽。
 「ああ夕陽がきれいだ…」
 ユタカが柄にもない事を言います。
 「うん、こんな景色を見てると、まるであの一ヶ月前の事件がウソのようだね」とパウリ。
 ユタカがぽつりと言います。
 「実は、おれ、坂木羅衣のこと…ずっと好きだったんだ」
 (えっ、何で?)とアツシが驚く間もなく、パウリが、
 「そうか、ホント言うと、オレも…はねっかえりだったけど、ちょっと可愛かったよな」
 (何でだよう、あいつはぼくとコトノちゃんを殺そうと…)
 でもアツシはそれを口に出しては言いませんでした。あのオドロキの正体を別にしても、意地悪でイヤミな阪木羅衣のどこが一体…とは思ったけれど、確かに頭がよくて、それなりに魅力的な美少女だった羅衣。ユタカとパウリのふたりは、多分、羅衣が兄たちに言われて仕方なくあんな振る舞いをしていたくらいにしか思っていないようです。それに彼らは老婆となった姿の彼女を見ていない…考えてみれば、坂木羅衣も、あの血に飢えた一族にさえ生まれていなければちょっと生意気なフツーの少女だったのかもしれないな…そう思ってアツシは、ここはユタカたちの言葉をスルーしておくことに決めたのでした。
 パウリが訊きます。
 「なぁ、アツシ、お前、勉強して、いい学校行って、オトナになったら何になろうって思ってるんだ?」
 「えっ?ぼ、ぼくは…」
 もちろん、アツシにも夢がないわけではありません。ただ、その夢はアツシの中ではまだはっきりとした形にはなっていない…アツシが口ごもっていると、パウリは気にとめる様子もなく、
 「オレは絶対、サッカー選手だな。勉強するのも、いい学校に行くのもすべてサッカーのためさ。最高にクレバーなプレーヤーを目指すんだ!」
 パウリはどうやら自分の夢を語りたかっただけのよう。成り行き上、パウリはユタカにも将来の夢について問いました。
 「え、おれ?オレは、まぁ、風まかせさ。何しろおれ、もうすぐ姓が変わるかもしれないし…」
 「えっ?姓が変わる?」
 一瞬、驚いたパウリも、またアツシも、その先を訊ねようとする言葉をのみこみました。ここから先は聞いちゃいけない、訊いても仕方ない領域なのだと察したからです。ユタカの現在の姓はタハラ。これがもうすぐアキタになるかもしれないとの事。
 「そうか…でも…『タハラユタカ』も『アキタユタカ』も、どっちも何だか日本を代表するような、すごい大物になりそうなカッコイイ名前だな!」
 三人はちょっとしんみりした気分になって、しばらく無言で夕陽を眺めます。
 と、三人の背後に人の気配。振り向くと、買い物帰りのアツシのばあちゃんが、すっくと立って目を凝らすように湾の向こうを見つめています。
 「おお、来なさった、来なさった!わしが娘時代に見たそのままじゃ。あれじゃ。あれこそが本物のおサンガさまだべ!」
 そう叫ぶばあちゃんの見つめる先、外海の向こうに、夕陽を背負っているためにまるで後光がさしているように見える、富士山のような美しい輪郭をもった島が浮かんでいます。そしてその浮島は、寺栄湾の方へと何か聖人の歩みを思わせるゆったりとした速度で進んで来て、湾内に入るや、湾の中央に屹立する華島の右どなり、その存在をおびやかすかのような位置にまで移動すると静かに止まりました。
 岩肌の表面をうめつくす紫に輝く美しい苔。所々に混じる燃えるような赤は、名前も知らない可憐な野花の群生なのでしょう。島の周りを純白の二羽の鳥が、島を守護するかのようにゆっくりと旋回しています。
 「あれが燦ヶ島かぁ…ホントにきれいだ」
 「うん、やっぱり燦ヶ島は本当にあったんだね」
 そして、伝説の燦ヶ島を目の当たりにしたこの瞬間、アツシの胸の中に、ある熱い思いが、沸々と湧き上がってきたのです。
 アツシは心を決めたように口を開きました。
 「ぼ、ぼく、しっかり勉強して将来は学者になるよ。この付近の海は海流が不安定で、特にこの寺栄湾の周辺は浮島が漂っていて危険だから漁師さんたちも困ってる。だからぼく、海洋物理学者になって、環境を壊さない範囲で海流を安定させる研究をする。もう浮島が外海に漂い出たりしないようにしてみせる。僕の手で、あの美しい燦ヶ島を寺栄湾に定着させるんだ!」
 
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 J1定着へと快進撃を続けている京都サンガFC。何より今季はチーム全体で、勝利への意欲をむき出しにして戦っている姿が嬉しいですね。ところで試合の前日にはいつも、地元紙KY新聞に、一面を全部使ってサンガの応援記事が掲載されます。記事の中央には、サンガ加藤久監督の似顔絵つきで次節勝利へ向けての監督のメッセージ…加藤久監督の絵つき…加藤久監督のイニシャルはHKだからHK絵つき…いえいえ、サッカーファンで加藤監督の久の字を『ひさし』と読む人は誰もいない、普通は『Qさん』と呼ばれています、だからQK絵つき…QKetuki。そう、お読みいただいた通り、コトノちゃん誘拐の中心となった犯人、美少女阪木羅衣の正体は何と『吸血鬼(QKetuki)』だったのでした。

                         (終 わ り)